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戦国の狼煙。

…結局見に行けませんでした。
いや何がって、劇場版仮面ライダーオーズですよ。
もしかしたら探せばまだ上映してるトコもあるかも知れませんが、まだ当分仕事が詰まってますから、結局行けないことに変わりはないわけで。

今回に限らず、面白そうだな、とか思ってても、映画は大体見逃してしまうのがここ最近の常なようです。
…彼女と一緒に行く予定とかが入ってれば、無理矢理にでも間に合わせるとは思うのですが…そもそもそんな予定どころか彼女すらいませんよ。
そんなわけで色々興味のあったことも、やっぱり結局私自身のやる気次第になってしまいます。

…強制的に外に出る習慣をつけるべきかもしれません。

今日の話題もまた、そんな毎日の中、行きそびれてしまったイベントのお話です。
即ち、群馬県立歴史博物館での催し
関東戦国の大乱~享徳の乱、東国の30年戦争~
です。
…戦国時代好きとしてはやはり、かつて地元群馬で起こった、最大の戦に関しては知っとくべきだと思って、随分前からチェックしていたのですが…。

あんまりにも悔しいので、ここに私の知る限り「享徳の乱」について列挙しておきます。
…仕事の合間に博物館に行った気になっておこうかと。
逆に切ないですけどね…。

さあいいですか?
特撮の話題を見に来た皆さんには、全く興味のないお話をしますよ?

さて。
「享徳の乱」応仁の乱から遡ること12年前、1455年から1483年までの間ずっと続いていた戦乱の総称で、関東地方版・応仁の乱です。
馬鹿みたいに長い上に、似たような名前の人たちが大勢出てくるので、細かいことは省きますが、大雑把に言って鎌倉で関東の統治を任されていた「古河公方」と、その下で実務を取り仕切っていた「関東管領(執事)」の間の争いだと思って頂ければ結構です。

室町幕府の時代、権力はあんまり中央集権ではありませんでした。
各地方ごとに「探題」なる権力機関を設置して独自に統治させ、それ全体を統括するのが室町の御所、という形式でした。
今で言う地方分権に近い形だったんでしょうか。
でも完全に自治を任せてしまうと、確実に独立されてしまうでしょうから、その地元で実務を取り仕切る役人の長を任命する権利が、室町の幕府に与えられていました。

つまり、鎌倉探題と幕府の仲がこじれる=鎌倉の古河公方・足利氏VS関東管領・上杉氏という構図になるのは必然です。
(…あ、ここでの「足利氏」は、室町将軍家の「足利氏」の分家です。ややこしいですが。)
「俺は俺で好きにやりたいんだよ!」と地方自治を訴える古河公方。
「駄目っス!ちゃんと親方の言うこと、聞いて下さいっス!」と止める関東管領。
二人で殴り合って決めりゃそれで良かったんですが、そこに関東全域から助っ人が続々と。
そんな中で実力を発揮し始めたのが、後に長尾景虎を生む「長尾氏」や大田道灌の「大田氏」など。
もともと地元の守護大名だった武田氏や里見氏らも、機に乗して領土を拡大、着々と地固めをしていきます。

三十数年を経て、ようやく幕府と鎌倉は和議を締結しますが、この後は知っての通り関東の統治の実権は、ほとんど上杉家に移り、その上杉家も、武田の虎、北条の獅子、長尾の龍の、三つ巴の戦乱の中力を失い、長尾景虎にその名を譲ることになります。
諸行無常、是生滅法。

そんな「享徳の乱」ですが。
何故私が、この事件にそんなにこだわるのかというと。
それは「戦国時代」の定義に関して、重要な意味を持つからです。

そもそも日本史上に「戦国時代」という区分はありません。
基本的に日本史の時代区分は、公的な為政者の所在によって行われるものです。
「戦国時代」はあくまでも室町時代~安土桃山時代の中の「ある時期」を指しています。
そのある時期とは、何なのか。

一般に「戦国時代」と言えば、応仁の乱(正確には応仁・文明の乱ですが)から始まった、と言われております。
ですが、もう一歩深く考えてみましょう。
どうして「ここから」だと思うのか、と。
理由は主に、以下の二点によると私は考えています。

一点目。
戦のきっかけが幕府、ひいては将軍家の権力争いであること。
こういう国内においてある意味絶対的な大義名分が、戦争の旗印(名目)であったことが、日本全土に「戦争をする時の理由付けの、いい見本」となってしまったんじゃないかと。

二点目。
その戦乱に各地の守護大名が参加してしまったこと。
どちらについても幕府、将軍家自体が旗印なわけですから、勝てばこんなに美味しいことはありません。
権威を嵩に敗戦国から略奪を考える者、幕府に貸しを作ることで自身の権力の拡大を図る者。
色んな思惑を持って、各地の守護がぞくぞくと京都に集結しました。
結果、日本で一番豊かな都市は焼け野原になり、国内全体が一層苦しくなった、という副産物もあるのですが。
問題はそこではなく。
この「応仁の乱」、実質十年間も続いたわけですから、その間守護大名たちは、自国を「守護代」と呼ばれるナンバー2に統治を委任していたわけですね。
つまり。
地元ではこの守護代が、十年間好き放題権力を拡大していたわけです。
十年経って戦が終わり、守護がようやく地元に帰ってきても、「イヤもうお前の席、ねえから」となってしまっても仕方がなかったんじゃないでしょうか。
…ちなみに、こうやって下克上に成功したのが、あの織田家や浅井家です。
先に挙げた長尾家や大田家も、もともと上杉家の執事ですし。

この二点が、応仁の乱が歴史上重要なターニングポイントだと位置づけるべき理由です。
…逆を言えば。
この二点を押さえた戦が他にあれば、それも「戦国時代の始まりの戦争」と呼べるわけです。

…長くなりましたが、つまりはそういうことです。
ここ群馬県を主な戦場にしたこの「享徳の乱」は、応仁の乱以前に、しかも応仁の乱と同じ要素を備えた戦乱だった、と。
…ね?
マイナーだけど超重要な事件でしょ?

……だからこそ、細かいことをもっと知っておきたかったんだけどなあ…。
せっかく大きな催し物があったわけですし…。
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